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アンティークレース咲いた♪(⌒∇⌒)
買うときに会った花の写真と違って黄色になってしまってるけれど、咲いてくれればいい~!
来年は2色のカラー見れるといいな♪

めるるはこれよね。

めるる「ウマウマ~
」一週間過ぎてしまったけれど、先週の日曜日、めるるとくりはま花の国へ行った翌日ですが、私と姉で、地元の三浦の歴史散歩というものに参加してきました。
姉が何やら勝手に申込してて、もれなく強制参加。。
私、高校では世界史を専攻。
日本史はどうにも苦手。(-_ー;)
んで、小学校の時に、三浦の歴史の本を強制で各自1冊買わされて読んだ。
・・んだけど、苦手なものは右から左へ抜ける。(* ̄Oノ ̄*)ホホホ
まあ、地元の歴史もう一回復習~って、いざ参加!

最初は鎌倉宮へ。
ここからスタート。
でも、ここは見学じゃなくて、ただの通りすがり。

テクテクみんなで歩き。

歩いてるのは二階堂と呼ばれる地域。
鎌倉には源頼朝が建てた三大寺院の一つ、永福寺後。
現在二階堂と呼ばれる一帯がそうだったみたい。
ちなみに源頼朝が滅ぼした木曽義仲・平家・奥州藤原氏などの数万の怨霊を鎮めることを目的に建立されました。

説明してくれるんだけど、私は横の真っ赤な花(?)を付けた木が気になったw

この地区洋館とか立派な建物が多くて、すごいゴージャス!

↑は大蔵(大倉)幕府跡。
源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入り、最初ここに居を構えた。
その後は宇都(津)宮辻子幕府(11年)→若宮大路幕府(98年)と移設しています。

次の目的地。源頼朝の墓。
・・・忘れたけど、多分小学校の時に学校行事で行ったと思う。。。

1199年落馬で亡くなった源頼朝。
幕府は法華堂を建立して、この場所に葬りました。
現在の墓は江戸時代末期に、頼朝公の子孫とされる薩摩藩主・島津重豪氏が建立した供養塔と云われてます。
頼朝の墓の下に白旗神社と云うのがあるけれど、
三浦氏が滅亡した場所。
三浦秦村の妻子一族郎党500人と共に自刃下場所。「宝治合戦(宝治の乱))
後にすぐ隣にある、三浦やぐらという場所に行きました。
階段があって、開けた野っぱらの広場、階段を上がって、その上に大江広元・毛利季光・島津忠久の墓といわれる3つのやぐら。
・・・が、すみません。
写真撮れなかった~

階段下からすでに、頼朝と違ってなんか怖い~

この上、ヤダ~

って感じが来てて、上がった草っぱらの広場。
昼間なのに、怖い。。ヤバイ。。。
上のやぐらも、あ~。。。ダメだ

ここすごく重い。
写真撮れないところだぁ~

って、撮れませんデシタ。
夜なんかもっての外。
昼間でもツアーじゃなければ、行きたくない場所。

まあ、歴史散策だから、それはそれで説明を聞きつつ、さらに移動。

ここまで来たら、やっぱり鶴岡八幡宮。
1063年源頼朝が京都の石清水八幡宮をこの地に勧諸したのが始まり。
そして、3代将軍 源実朝は1219年右大臣に昇進した拝賀の式典の最中に公暁(実朝の兄2代将軍 源頼家の遺児)に八幡宮の大イチョウの影に隠れ、実朝を襲ったと云われてます。
・・・が!なんかね~、説があってね。
当時大イチョウではない。細い木だった。
・・・なので、隠れるなんて無理だろう。
式があったのは夕刻から夜の為、階段を下りた時には暗闇で、階段を下りたところには列になっている人達が並んで待っていた。
その間をすり抜け、実朝の流裾の衣装を踏んで倒れたところを切りつけ、首をはね、持ち去った。
・・・とか。

観光地で有名だけど、血なまぐさい歴史がある鎌倉。
地元では土を掘れば人骨が普通に出てくるって話は昔からよく聞く。
んで、私は昔から(生まれも育ちも三浦半島で鎌倉は近いからよく来てた)、ここはダメ~

ってところが何か所か。
昔から日本史苦手なのはこの辺から来てたかな?(⌒_⌒;
鎌倉から、移動します~。
なので、続く~w
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